続きの続き。ねじまき鳥。

考えれば考えるほど、

ぞくぞくするほど面白い。

ので、チラシの裏の「落書き」「下書き」「メモ書き」レベルのものだけど、しつこく投稿する。

まだまだまだわからない部分は多いものの、

私はねじまき鳥クロニクル

「ある意味でとても現実的な」反戦

として読めると、感じた。ただ、作者は反戦論者ではあると思うけど、戦争を止めることは難しいと感じていると思う。

戦争の時代に向かうなかで、

「もっとひどいことにならないための」

心構え、を伝えたいんじゃないかなと思った。

まえの日記でも書いたけどこの作品は【対決】を描いているのだけど、

(悪の定義にもよるけれど)少なくとも暴力を悪と見る場合、悪と正義の対立ではまったくない。

人間に潜む「慾望」とか「暴力」とか、

そういうものを助長し、利用しようとする大きな働き、波みたいのもの、

それを起こそうとする存在に対して、

どう立ち向かうべきなのかという話だと思う。

前者は主に政治の舞台において力を増し、メディアをとおして、私達に影響を及ぼしてくる。

一方で、それに対抗するのは【一般の人】に属する「個人」なのである。

一般人が、右手と左手(左手は間宮中尉に欠けていたもの)を兼ね備え、

すなわち、法と秩序を守る心をもちそして想像し考える力と、直感にまかせ、「無条件の愛」を信じ、そして夢を見る力とを、両方持って、

はじめて【敵】に対抗できる。

でも、それだけではだめだ。

そこに必要な要素がいくつかある。

まずは何気ない日々の生活を、大切にするということ。

愛し愛されることを自然にすること。その象徴が「あひるのひとたち」なわけだよね。

そして、もうひとつ、暴力に対抗するとき、

暴力が必要になると言っている。ナイフに対抗するバットが必要なのだ。それは人間が皆心に抱えている暴力なのだ。

さらにもうひとつ。

暴力では本当には倒せない。

あてずっぽうで無我夢中なければ、バットはあたらない。だけど、止めをさせないのだ。

止めは「右手」で必ず行われなければならない。

死んだはずなのに、動いて、獣医(左手担当)を井戸に引きずり込んだ中国人。そのとどめを指したのは「我にかえり」「自ら井戸に飛び込んだ」中尉だった。かれは、狙って、ピストルの引き金をひき、この中国人を殺した。

たぶん、これは、すごく重要なんだわ。

暴力では、暴力の波を止められない。最後は冷静に、理性的に、それを終わらせなければいけない。

獣医は、攻撃された後の中国人によって、井戸に引きずり込まれ、ピンチになった。

主人公も、ワタヤノボルをうち据えてから、

井戸の中で水に襲われる。

中尉が獣医を助けるのにかわって、主人公を助けてくれたのは、クミコさんだったんだね。

クミコさんは、冷静に、静かに、ワタヤノボルの生命維持装置をはずしたんだよね。そしてクミコさんは法で裁かれることを望む。

きっと、この小説の中でバットは「原始的な欲求」「人間本来の暴力」を象徴していて、狙いを定めて打つ必要があるピストルは「理性」「法」の象徴なんだと思う。

この小説は、まさに今、読まれるべきだと思う。

なぜなら、今、時代は暴力の時代に向かっているからだ。私にはどうしても、アメリカの大統領は、ワタヤノボル達と同じサイドにいるように思える。

私達は、どう対抗するべきなのか。

それには私達が自分で考えて賢くならなければいけないし、それには、自分で気づかないといけないし、

それを促そうとして、書かれた小説だと思える。

こう考えたとき、

「トト姉ちゃん」に通じるものを感じた。

(偉そうなことをいいながら実はほとんど見ていない、でも、エッセンスのようなものを特集した番組はみた。)

トト姉ちゃんと「あひるのひとたち」が絡むエピソードはたぶん、とても似ている。

なぜ、作者が、いま、この時期に「暮らしの手帖」を改めて世に紹介し、多くの人にドラマを見てもらおうと思ったか。戦争で奪われ、そして日本人が戦争から立ち直るとき、とても大切だったのが、「日々の生活を丁寧に積み上げ、そこに喜びをみいだし、感謝すること」だったと……いうことを、改めて考えさせようとしたんだと思う。

ねじまき鳥においては、まさにこれが「恩寵」であり、光のなかで形作られようとして、間宮中尉が気がつくことができず、彼の人生から失われてしまったものなんだと思う。

笠原メイは、月明かりの中で「あひるのひとたち」について考えた。だからこそ、クミコさんは救われ、立ち直り、

今度こそ間宮中尉にかわり、ワタヤノボルを殺すことができた。

あ、だから、クミコさんと主人公の子どももコルシカなのかぁ……

はぁー、これは面白いな。

この面白い作業は終わらんなぁ。